透明性への抵抗――パク・チャヌクの映画

パク・チャヌク
パク・チャヌク

イメージの倫理と感覚の政治をめぐって

雨のあと、窓はいつも世界を二重にする。外の風景は、薄くもう一度ガラスの表面に敷き直され、その上に室内のかすかな反射が重なっていく。現実は幾層にもずれ、滑り込む。『お嬢さん』のある瞬間を思い出してほしい。そこでは窓ガラスは単なる背景ではなく、欲望と欺瞞が反射し、増殖していく装置として存在している。カメラはそれをただ見つめるのではない。むしろ、その中へと滑り込み、見るという行為そのものに疑いを差し向ける。その時点で私たちはすでに、パク・チャヌクの映画が「何について」語っているのかではなく、「いかにして」世界を構築しているのかを経験している。彼の映画が一貫して関わっているのは、表面を通過していく運動――イメージの倫理であり、感覚の政治なのだ。

『オールド・ボーイ』の廊下のシークエンスで、カメラは横滑りしながら暴力をほとんど機械的な反復として編成していく。しばしばそれは「ワンテイク」として語られるが、実際には、それは切断を隠し持つ時間の構築であり、自らの断裂を消去する連続性に近い。重要なのは技法の名称ではなく、そうして持続される時間の質感である。切れ目の見えない時間は出来事を圧縮するのではない。むしろそれを引き延ばし、観客を暴力の内部へと押し込む。しかしその内部は決して単一ではない。擦り切れた壁紙の模様、身体の荒い呼吸、鈍い打撃のリズムは微妙に同期を外し、ひとつの裂け目を生む。その裂け目のなかで、暴力は単なる行為であることをやめ、感覚の構造へと変わる。パクは暴力を見せるのではない。暴力がどのように持続するかを作曲しているのである。

この持続はしばしば倫理的判断を宙吊りにする。『親切なクムジャさん』において、復讐は正義の回復というよりも、精密に演出された儀式である。カメラは人物たちを正面から配置し、その感情を過剰な色彩と音楽のなかに封じ込める。復讐はもはや内面の噴出ではなく、ミザンセーヌの一要素として表面に配分される。観客は感情に同一化するのではなく、感情がいかに構築され、消費されるのかを目撃する。パクの映画は感情の真正性を疑うというより、感情という形式そのものを露出させる。

こうした形式への執拗さは、しばしば「スタイリッシュ」という言葉に回収されてしまう。しかしここでのスタイルは装飾ではない。それは思考の様式である。『渇き』において、血は単なる生理的な物質ではない。それは倫理的境界の崩壊を可視化する色彩の力として機能している。赤は、身体の欲望と聖なる禁忌を同時に呼び起こし、人物たちを両立しえない秩序のあいだに固定する。カメラは彼らの苦しみを説明しない。それを美しい構図として提示する。ここで美は倫理を中和するのではない。むしろ倫理が作動する仕方そのものを転覆させる。私たちがそのイメージを「美しい」と感じた瞬間、すでに私たちはある道徳的枠組みの外へ滑り出している。

パクの作品を横断して反復されるのは、この二重性の構造である。愛と暴力、純粋と腐敗、犠牲と快楽は互いを排除しない。それらは絶えず重なり合っている。『別れる決心』では、この構造がより繊細な調子へと変奏される。カメラは人物の視線を追いながら、次の瞬間にはそれを裏切り、別の角度へと滑り込む。対話は感情を明確に伝えることを拒み、翻訳を拒む残響だけを残していく。韓国語と中国語のあいだにある微細なずれは、意味の不完全さを露わにし、愛を聞き損なわれた言語へと変えてしまう。ここで愛は告白されるのではない。絶えず誤って伝達され続けるのである。

パクの映画が探っているのは、見ることと信じることのあいだにある間隙である。彼のカメラは透明な再現の道具ではない。それは視覚そのものを解体する装置だ。この点において、彼の仕事は明晰で途切れのない視線を理想とした古典的映画の理念から決定的に離れている。代わりに彼は、イメージがいかに構築され、いかに誘惑し、いかに裏切るのかを露わにする。彼の映画において真実は決して暴かれない。それは幾重にも重なり、先延ばしにされ、変形されながら、ついに手の届かない場所にとどまり続ける。

だからこそ残るのは、物語の閉じ方ではなく、感覚の残滓である。ひとつの場面が終わったあとも、あるイメージの断片だけが私たちの内部に残り、解釈を拒み続ける。雨粒の痕が窓ガラスに残るように、それは消え去らない。それはなお視界を曇らせ、見ることを妨げ続ける。そしてまさにその妨げのなかで、私たちはもう一度、彼の映画を見始めるのだ。

— シネマ・ヴィジョナリーズ

空間はいかにして階級と運命を決定するのか