反復と感覚がいかに観客を操作するのか
シャンパングラスの表面が、ほとんど気づかれないほど微かに震えている。その内側に閉じ込められた世界は、決して静止へと落ち着こうとしない。泡は上へと立ちのぼる。だが、その軌道は決して完全には予測へ従わない。エメラルド・フェネルの映画は、まさにこの不安定な上昇の感覚から始まる。そこには磨き上げられた滑らかさがあり、ときに優雅ですらある。だが、その表面の下では、絶えず方向を書き換える力が働いている。感情は決して直線的には蓄積されない。ある瞬間、それは自らの意味を裏切り、まったく別の流れへと滑り込んでしまう。
『プロミシング・ヤング・ウーマン』の第一印象は、むしろ過剰なほどに受容的だ。色彩は柔らかく、フレームは安心を与える安定のなかに整えられ、登場人物たちはあたかもロマンティックな可能性の地平のなかに配置されているように見える。だが、その「可能性」はすぐに反復の圧力のなかで崩れ始める。似たような場面が繰り返されるたびに、かつてそこに約束されていた感情は空洞化していく。ここで重要なのは出来事ではなく、リズムである。同じ状況がわずかな差異を伴って反復されるとき、観客はその背後にある構造を感知し始める。それは物語の構造というより、むしろ感情の構造だ。感情はいかに誘発され、いかに消耗し、そしていかに再配置されるのか。フェネルはこの過程を、ほとんど実験的な厳密さで追い続ける。
この反復の詩学は、視覚の平面においてさらに精密に作動している。パステル調の色彩は単なるスタイルではない。それは感情を外部化するための方法なのだ。そこでは奥行きが剥ぎ取られ、すべてが即時的な感覚へと平坦化される。しかし、まさにこの平坦さこそが、断裂の条件を生み出す。深さを失った世界では、感情はきわめて揮発的になり、突然の反転を可能にする。快楽はたちまち不快へと変わり、魅惑は嫌悪へと滑り込む。こうした急激な転調は、物語の論理というより、むしろイメージそのものの質感から生じている。フレームは人物を説明しない。むしろ、その人物が置かれた感覚的環境を過剰に決定し、その人物が何を感じるべきかを、観客に対してほとんど指示してしまう。
『Saltburn』に至るころ、この感覚の政治はさらに露骨なかたちを取る。空間はもはや中立的な背景ではない。それ自体が物質化された欲望となる。カメラはその空間をただ記録するのではない。むしろ、それに耽溺する。表面を滑り、質感、光、装飾の過剰にほとんど執着的な注意を注ぎながら留まり続ける。だが、その耽溺は決して完全に心地よいものではない。美が強化されればされるほど、それは自己破壊へと近づいていく。快楽は純粋な感覚として存在することをやめ、過剰の副産物として立ち現れる。そして過剰とは、必然的に自らの崩壊を予感しているものなのだ。
この地点で、フェネルの映画はジャンルに対するきわめて繊細な転用を露わにする。復讐、欲望、上昇――そうした馴染み深い物語の枠組みは、観客に安定した解釈の格子を提供しているように見える。だが、その格子は内部からゆっくりと変形していく。決定的な出来事が起こる以前に、感情はすでに別の場所へと移動している。観客は、自分が何を期待していたのかを、いつも遅れて気づく。この遅延は単なるどんでん返しではない。それは知覚そのものの失敗を露出させる装置である。私たちは物語を追っていると思い込みながら、実際には感覚の流れに運ばれていたことを知る。
こうした感情操作は、視線の問題と深く絡み合っている。古典的な問い――誰が誰を見るのか――は、ここでさらに曖昧な次元へと拡張される。何が「見られるように」配置されているのか。そしてその配置のなかには、どのような感情的前提が埋め込まれているのか。ローラ・マルヴィの視線論が権力と欲望の分配を明らかにしたのだとすれば、フェネルの作品は、その分配がいかに感覚的快楽として包装されるかを示している。観客はイメージを消費しながら、同時にそこに規定された感情へと自らを同調させていく。その同調の瞬間において、倫理的判断は一時停止する。
結局のところ、フェネルの映画は何かのメッセージを伝達するというより、メッセージが成立する条件そのものを露出させている。感情とは自然に生まれるものではない。それは特定の視覚的、そしてリズム的な配置を通して生産される。そしてその配置は、つねに不安定であり、絶えず別の方向へと組み替えられうる。この不安定さは単なるスタイルの問題ではない。それは世界を知覚するひとつの方法なのだ。
シャンパングラスの泡は、やがて表面へと到達し、そこで弾ける。その瞬間、私たちが目撃していたものが上昇のイメージだったのか、それとも崩壊のイメージだったのかを判別することは不可能になる。フェネルの映画に残るのは、まさにこの曖昧な残滓である。感覚はなおきらめき続ける。だが、そのきらめきはもはや無垢ではない。それはすでに、ひとつの亀裂を通過したあとの光なのだ。
— シネマ・ヴィジョナリーズ
深淵の地獄から空間の階級まで