クロエ・ジャオ論|存在と時間のあいだにとどまる映画

クロエ・ジャオ
クロエ・ジャオ

出来事ではなく「存在」を捉える映像言語とは何か

風が荒涼とした平原をかすめても、そこに痕跡は残らない。だがカメラは、その風の不在を捉える——砂ではなく、時間の粒子が可視化される表面として。ひとりの人物がゆっくりとそこを横切り、その運動は物語以前の何か、まだ名を与えられていない生の単位のように見える。クロエ・ジャオの映画は、つねにこの種の状態から出発する。物語の始まりからではなく、その前にある状態から。問われているのは劇的な出来事ではなく、存在がいかに世界の中に置かれるのかということである。

彼女のフレームは空虚というより、空虚そのものを素材として扱っている。『ノマドランド』において、広大な砂漠や駐車場の開けた地面は単なる背景ではない。それらは人物の感情を反映したり増幅したりすることもない。むしろそこは、感情がまだ決定されていない状態にとどまる場所である。カメラは人と世界の距離を縮めない。その隔たりを保ち続け、そのことによって、人間が世界に完全には属し得ないという感覚を露わにする。この隔たりは悲劇というより、ある種の原初的な自由の条件として働く。

この感覚は、テレンス・マリックの映画に見られる自然との神秘的合一とは微妙に異なる。マリックが自然を通じて人間を超越的な秩序へと引き上げるのに対し、ジャオは自然をいかなる超越も許さない平面として残す。彼女のカメラは空ではなく地面に近い位置にとどまる。光は恩寵ではない——それはただの光である。世界は意味が付与される以前の状態へと差し戻され、その中で人物は自らを定義しなければならない。

この点で、彼女の作品はネオレアリズモの伝統と接続している——だが単なる継承ではない。非職業俳優の起用、実際のロケーション、最小限の物語介入といった形式的選択は、現実を再現するための戦略ではない。それはむしろ、現実が自らを開示することを許すための方法に近い。『ザ・ライダー』において、主人公の身体は演技の道具ではなく、すでに経験を通過してきた生の痕跡である。カメラはそれを解釈しない。ただそこにとどまる。重要なのは何が起こるかではなく、いかに存在が持続するかである。

この姿勢は、感情の扱い方にも等しく現れている。感情は出来事の結果として爆発するのではない。時間の中でゆっくりと沈殿していく。人物は涙を見せないが、その沈黙は感情を遅延させ、そうすることでそれをいっそう濃密にする。ジル・ドゥルーズの時間イメージの概念を想起するならば、ジャオの映画は行為や因果ではなく、持続と滞留を通じて世界の認識を生み出す。彼女のショットは次の場面へと押し進まない。それは現在の瞬間の内部にとどまり、それ自体で完結した経験となる。

しかし彼女の映画は単に遅く、瞑想的であるわけではない。その内部には、現代資本主義の構造が残した亀裂が刻み込まれている。『ノマドランド』に現れる移動労働者や居場所を失った人々、定住できない身体は、個人の選択の結果ではない。彼らはシステムによって生み出された流動性の中に生きている。だがジャオは彼らを被害者として固定しない。むしろその流動の中で彼らがいかに自らのリズムを生み出すのかを見つめる。ここでの移動は生存戦略ではなく、一つの存在様式となる。

注目すべきは、この美学が『エターナルズ』のような大規模フランチャイズ作品においても消失しないことである。この作品は巨大な物語構造と視覚的スペクタクルの要請によって形作られている。しかしその内部においても、ジャオは人物を広大な自然空間の中に配置し、時間の中で彼らがどのような存在であり続けるのかを問い続ける。不死の存在が抱える孤独は、彼女の初期作品が探ってきた有限の生の感覚と奇妙な共鳴をなす。ここで永遠とは祝福ではない——それは終わることなく持続する時間の重みとなる。

結局のところ、クロエ・ジャオの映画が問うのは、物語をいかに語るかではなく、世界の中で存在するとはどういうことかである。彼女のカメラは出来事を組織しない。それは存在を配置する。そしてその配置はつねに未完のままにとどまる。人物は到達点に辿り着かず、物語も結末へと収束しない。代わりに映画は、ある状態——持続、滞留、まだ終わっていない時間——の中に私たちをとどめる。

風が再び平原を渡る。何も変わっていないように見える。それでも通過した時間は確かにそこにある。ジャオの映画が捉えるのは、その変化の細やかな粒子である——出来事へと還元できない時間の痕跡。それは見ることはできない。だが一度それを感じ取れば、もはや消し去ることのできない経験となる。

— シネマ・ヴィジョナリーズ

色彩の純도から空間の階級まで